江戸時代の武士「突然の雨」武士ならば絶対にしないこととは?

突然の雨。武士ならば絶対にしないこととは?何でしょうか。それは、、、
①雨の中を「小走り」すること。
②軒下に入って「雨宿り」をすること。
③他人の傘に入れてもらい「相合傘」をすること。

上記は武士の教えでしてはいけないことになっていました。

たとえ突然雨が降ってきたとしても小走りはせず、普段と変わりないように悠々と雨に濡れて歩くのが鉄則。武士たる者、雨ごときにうろたえてはいけません。

ただし、刀の柄だけは雨に濡れないように守る必要がありました。その理由は、柄をぬらすと柄を握ったときに滑って感触が悪くなるから。すると、非常事態が起きたときに、思わぬアクシデントを招く場合があったのです。

また柄に鮫革が巻いてある場合、雨に濡れると水分を吸って、ふやけてやわらかくなってしまうから。鮫革は乾燥しているときは、とても硬くて切れませんが、濡れるとやわらかくなり刃物で切れてしまうのです。

したがって、雨が降ってきたら武士は持っている「手ぬぐい」で柄を巻くか「左袖の袂」で柄を覆いました。

それでは、すでに出掛けるときから雨が降っている場合は、どうしたのでしょうか。正解は「柄袋」を柄にかぶせて出掛けたのです。柄袋には、舶来の「羅紗地」(らしゃじ)や「鹿革黒うるし掛け」の高級な物から「呉絽」(ごろ)や麻製の粗末な物まで様々な物がありました。

これを踏まえてテレビや映画のシーンに注目すると、突然雨が降ったときに手ぬぐいで柄を巻いたり、袂で柄を覆ったりすることは正しいですが、はじめから雨が降っているシーンで戦に挑むという場面では、柄袋をしていなければいけないと分かります。

引用サイト:刀剣ワールド

刀「反り」の種類

  • 腰反り(こしぞり) はばき元でいきなり反るものを言います。
  • 鳥居反り(とりいぞり) 神社の鳥居のように、反りの中心が刀身の中央付近にあるものを言い、京反りとも言います。
  • 先反り(さきぞり) 反りの中心が刀身の中央より先にあるものを言います。
  • 内反り(うちぞり) 棟側ではなく刃側に反るもので、研ぎ減りした短刀に見られるものです。
    鎌倉後期の越中国則重が意図して作った内反りの短刀は特に筍反り(たけのこぞり)と呼びます。

「薙刀直し」と「薙刀直し造り」の違いとは?

薙刀が戦場で用いられることが少なくなると、「薙刀直し(なぎなたなおし)」と呼ばれる、薙刀を基にして打刀に作り変えたものが多く作られた。

これは薙刀の切っ先の張りを落として全体の反りを小さくし、を切り詰めて打刀として適した体配(刀の全体形状)としたもので、薙刀の刀身は刃渡りが比較的短いものが多い為、脇差や短刀に仕立てたものが多いが、大薙刀を薙刀直しとする例もあり、代表的なものに九鬼嘉隆が所持していた打刀がある。

薙刀は実戦で用いられた期間が長いため、長年伝来しているものは品質の高い名品であろう、とされたこと、また質の低い数打ち物(大量生産の粗悪品)をわざわざ刀に直す手間を掛ける者もない、ということから「薙刀直しに鈍刀なし(なぎなたなおしになまくらなし)」と謳われ、実際に現存する「薙刀直しの刀」には優れたものも多い。後述の「薙刀直し造り」はこの謳いにあやかって作刀されたものとも考察されている。

薙刀直しの名品としては、豊臣秀吉が入手した頃には既に磨りあげられ大脇差になっていた「名物 骨喰藤四郎」や、豊臣秀頼が差料にしていた脇差「名物 鯰尾藤四郎」が有名で、いずれも粟田口吉光の作と伝えられる。

薙刀直し造り

薙刀を造り直して刀としたものではなく、作刀時から薙刀直しであるかのような形状として造られた刀もあり、それらは「薙刀直し造り(なぎなたなおしつくり)」と呼ばれる。

薙刀直しと薙刀直し造りの相違点は第1に茎の形状で、薙刀直しが「薙刀の茎を切り詰めた」ものであるのに対し、薙刀直し造りは茎が最初から「刀の茎としての形」をしていることであるが、必ずしもそうであるとは限らず、茎の形状も含めて“最初から薙刀であったかのような形状”で作刀される例もあり、伝来や銘で確かめられない場合、判別は困難なものもある。また、直し造りではなくとも、冠落造りもしくは鵜首造りに薙刀樋もしくは腰樋とした、薙刀に刀身形状の似た短刀や脇差もあり、これらも伝来や銘で判断できない場合、判別が難しいものもある。

薙刀直し、薙刀直し造り共に、拵は通常の打刀拵や短刀拵とされているものがほとんどであるが、稀に、薙刀用の縁金具や筒金を用いて、薙刀の柄を切り縮めたかのようなものとして仕立てられている変わり拵があり、これらを「薙刀造の拵」と呼ぶことがあるが、呼称としては一般的ではない。

■出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

大段平大切先

寸法が長く、身幅が広く、反りがやや浅い姿大段平姿

歴史からは南北朝に入ると、戦闘方法が歩兵による集団戦へと移行し、騎馬の主人の回りを従者の歩兵が囲むという形になってきたため、その歩兵を払いのけるための大太刀が出現しました。これは薙ぎ払うための刀ですので、長さは二尺八寸(約85センチ)前後が定寸で、四尺、五尺といったものまであり、身幅が広いので重量軽減のため重ねを薄くしているのが特徴です。従って南北朝時代の作とされる物で重ねが厚い物は疑ってみる必要があります。身幅が広いので切先は必然的に大切先となります。このように長寸で身幅が広く大切先となった太刀を大段平(おおだんびら)大太刀(おおだち)と呼びます。

ただこのような大段平は長すぎるので、普通は馬上の武将は持たず徒歩で従う従者に持たせておいて、持たせたまま柄を握って引き抜くというようにして使います(下の図)。ですから戦いの途中で従者がやられたり追い払われると役に立たず、また大太刀に対抗する鎗や薙刀が多用されて馬上での戦いが不利になってきたので、この大太刀の流行はごく短期間で終わっています

■おさるの日本刀豆知識から
http://www7b.biglobe.ne.jp/~osaru/nanbokuchoujidai.htm

肥前忠吉 (初代)※初代~九代(日本刀全集では肥前国は十一名記載)

肥前忠吉 (初代)※初代~九代(日本刀全集では肥前国は十一名記載)

元亀3年(1572年)~寛永9年(1632年)8月15日死去。享年66。
初代 忠吉は、日本の刀工で五字忠、新刀最上作、最上大業物
江戸時代初期に肥前を中心に活躍した新刀鍛冶として知られる。
号が忠吉(後に忠広)であり、
本名は橋本新左衛門。新刀最上作最上大業物であり、名手とされる。

1572年(元亀3年)、
高木瀬村長瀬(現佐賀県佐賀市高木瀬町大字長瀬)に
龍造寺家の家臣である橋本道弘の子として生まれた。
橋本家は元々武士で少弐氏の一族とされる。
九州の大名龍造寺氏に仕えていたが、
祖父の盛弘と父の道弘は1584年(天正12年)3月24日に
島原での沖田畷の戦いの際に討死をしている。
この時忠吉はまだ13歳であったがために、
軍役叶わずとして知行断絶した。

このため一家は刀匠に転身し、1596年(慶長元年)に 上京して、
山城国の埋忠明寿(うめただみょうじゅ)の門に入り刀工としての技を磨いた。
1598年(慶長3年)に帰国して佐賀城下町(現長瀬町)に居を構え、
鍋島勝茂から戦功ある家柄であったということで
橋本家は鋳物師の谷口家(初代谷口清左衛門長光)とともに
佐賀藩の「手明鑓」(藩士)として、世禄二十五石であらためて取立てられ、
代々藩工として栄えた。

作刀
制作の時期により、五字忠銘、秀岸銘、住人銘、
改銘後の忠広銘に分かれる。
初期は「五字忠銘」といって「肥前国忠吉」の銘がほとんどのようである。
秀岸というのは僧侶らしく、この人の書く字を真似て切った癖のある切銘のことを言う。
秀岸銘をやめてのち、「肥前国住人忠吉作」などと切る住人銘になる。
晩年は武蔵大掾を受領し名を「忠広」と改め「武蔵大掾藤原忠広」と切る。
重要美術品の刀、脇差しがある。
息子の近江大掾忠広以下、幕末まで一貫して続く肥前刀の開祖といえよう。

※Wikipedia引用

堀川国広

堀川 国広(ほりかわ くにひろ)
本名:田中金太郎または田中国広
享禄4年(1531年) – 慶長19年4月18日(1614年5月26日))は、
慶長19年(1614年)4月18日、84歳で死去。

田中国広と称し、九州日向飫肥城主の伊東家の家臣であった。
島津氏の侵攻に会い主家が没落。
主家の遺児伊東満千代(天正遣欧使節の伊東マンショ)に
従い各地を転々としたという。
天正4年ごろから「日州古屋住」銘のものが残り始め、
天正18年ごろまで日州古屋住と切っている。
山伏としても庵名を「旅泊」という。國長との合作に「旅泊庵主国広」と切る。
諸国を流浪し、天正18年には上野足利の足利学校におり、
当主の長尾顕長のために「山姥切」写し(山姥切国広)を鍛刀している。
この時、顕長の軍陣に加わり、
足軽大将として殊勲をたてて感状と吉広の槍を拝領し、
小田原征伐の際には小田原城に籠城したともいう。

のち石田三成の命を受けて九州に下り、
都城島津領の検地に従事。文禄検地の結果、
旧主伊東家の新領地も定まったため伊東家に復帰したという。

安土桃山時代、日向綾出身の刀工。
新刀初期の大勢力、堀川派の祖。
信濃守と号す。天正18年には信濃守を受領したと思われる
京の一条堀川に居を構えたのち、
堀川国広と呼ばれるようになる。

古刀の相州正宗、新刀の国広、
新々刀の水心子正秀と並び称され、
中興の三傑とも呼ばれる。

多くの弟子を輩出し指導者としても有名であり
門人に出羽大掾(だいじょう)国路、国安、
大隅掾(おおすみのじょう)正弘、
越後守国儔、
和泉守国貞、
河内守国助、
山城守国清、などの名工がいて堀川一派として大いに栄えた。
一門の作は俗に「堀川物」と呼ばれる。
新刀の祖埋忠明寿と比肩する刀工である

堀川定住後の晩年には弟子による代作が多いとも言われている。
定住後は作風も異なり、穏やかなものが主流となる。

慶長新刀姿で、身幅広く反り深く、切先の伸びる豪壮な姿である。
小板目肌良く詰み、地沸細かにつくもの、肌立ったものも多い。
互の目(ぐのめ)乱れが多く「天正打」・「日州打」と称される。
堀川時代になると正宗をはじめ相州伝を模したり、
志津風をかもした「湾(のた)れ」や互の目乱れを焼き、
沸がよくついて金筋や砂流しがかかる。また、
直刃から小丁子を交えたものまで多彩で、
この期の作品は「慶長打」・「堀川打」と称される。
帽子は小丸や火焔風など。
国広とその一門は彫物の名手揃いで「山伏国広」のような不動明王と文字、
梵字を始め、棒樋、素剣を彫ったものから様々であり、巧い。弟子にも継承される。

新撰組副長としての土方歳三 脇差”堀川国広”
上半がのたれ互の目、
下半が直刃に堀川肌と確認できる肌立つ波文をしており、
堀川国広作と伝えられます。
堀川国広は江戸時代の山城国の刀工です。
元先の幅差広がらず、近世初頭の慶長新刀の特徴を示しています。
高松藩家老家に伝来しました。
しかし堀川国広作の刀は、
幕末においても非常に高値で取引されており、
大名クラスでも手にするのが困難な刀剣でした。
この為、
土方が所持していた堀川国広は贋作であったという説が一般的です。
俳優高倉健さんも堀川国広の脇差を所有されていたと思います。

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