説明
伝「勢州桑名住義朋斎三品広房」広房(みしなひろふさ、1806–1885年8月19日)は、
伊勢国桑名(三重県桑名市)に住した刀工で「陸奥守大道」一門の門人であり、9代・大道の弟であった三品廣道の長男で三品派の刀工で、義明斎または義面斎とも号し、三重県桑名市で活躍した。 古刀写しの名人として名高く、その村正写しは真作に迫る。 伝承では正宗十哲の一人志津三郎兼氏の末裔。 つまり、兼氏の九代孫を称したのが織田信長の鍛冶師だった兼道(後に陸奥守大道を名乗る)で、その末裔の九代大道(一徹斎大道)の弟が三品広道、そして広道の長男が広房である。
広房は由緒正しい血筋を引き、本来は相当の腕前を持つ刀工だったが、幕末の刀剣需要に圧されて、一時期、末備前を中心に偽銘の古刀の数打物を打ち、これらの贋作は「桑名打(くわなうち)」と呼ばれていた。 桑名打は広房と弟の広道(父と同名)が明治2年(1869年)ごろまで打っていたという。 贋作ではあるが、名工広房は技量を惜しみなく注いだようで、日本刀鑑定家大村邦太郎の証言によると、桑名打は実用性という点ではむしろ古刀のオリジナルを超えていることもあり、実によく斬れることで評判で、大村は「『本物以上の偽物』、という世にも不思議なもの」と評している。
贋作ではなく、本名の広房を名乗って村正写しを作ったものもある。代々の村正の中でも特に全盛期である大永期(1521-1528年)の村正の短刀を模して打ったものである。これは世に数ある村正写しの中でも最高傑作とされ、真作の村正にも劣らぬ会心作で、もし「勢州住義明斎廣房模之」の銘がなければ健全至極の状態の最盛期の村正の作として物議を醸したであろうほどの出来栄えだという。
上記のような諸事情はあったが、広房が自分の銘で打った刀や、その村正写しは優れた作品として高い評価を受けている。 広房自身が名工だったので、元贋作師なのに逆に自分が贋作を作られる立場でもあり、現代刀に広房の偽銘を切った刀なども現存する。 廃刀令の後は、包丁やハサミ、仕込み杖などの製作を中心としていた。 1989年の頃は桑名市鍛冶町で広房の子孫が優れた刃物を生産していて、2017年現在も同地で「廣房打刃物店」として六代広房である三品貴史が包丁などを打っており、ひろふさ製の包丁は地元桑名で代々愛用されているという。
桑名は松平家が十万石の城下町で東海道において京都・大坂方面から尾張(愛知県西部)や
江戸へ出る際に必ず通る重要ルートで賑わった宿場町であった。そのような地に、
もともと美濃国(岐阜県南部)の刀工であった大道一門が移住し刀鍛冶を行なったのです。
大道一門は高い技術を持ちながらも、「桑名打」と呼ばれる「古刀の偽作」を多く作り、
美濃伝、備前伝、相州伝と広範囲にわたっており、その中で廣房は沸・匂と
深い刃文を焼き、技量として特に優れた腕前の持ち主であったと評されています。
伊勢国桑名・江戸時代後期 慶応三年(1867)
平造り、庵棟、直刃焼き出しから始まる。刃文が非常に素晴らしく手元は乱れてから鋩にむけ直刃調で浅く湾れ若干「飛焼」まじる。錵深く乱れてから直刃調浅く湾れる。帽子は小丸に深く返す。古磨ぎながらも非常に綺麗です。裏表の刃文がそろい護摩箸の彫りが入っております。 密教では煩悩を焼却する目的で護摩を焚くと言われておりますが、武士の精神性を物語る一振りです。「広房」は、伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)に住した刀工で、「陸奥守大道」一門の九代大道の弟であった「三品広道」の長男という。房信らとともに偽作を造り、俗に桑名打ちといわれているものは、この一門の作だといわれているが、備前伝だけでなく沸匂いのふかい互の目乱れもあって作域が広く技量の高い鍛冶である。この「乱れて直刃」刃文は村正企画展「村正Ⅱ」で桑名博物館に展示されていた銘「村正 妙法蓮華経 永正十天癸酉十月十三日」刃長66.4 反り1.6 個人蔵に酷似しておりましたが、、。茎はタナゴではありませんが、たしかに「二文字の銘を消した跡」があります。新規の鑑定では(日本刀剣保存会)の審査員4名の方々は「伝,勢州桑名住義朋斎三品広房」との判断です。
※本作が当てはまるか分かりませんが徳川家と村正の纏わる話に家臣の忖度があり銘消しや当て字などの行為は有名かと思います。
※上記内容はすべて画像で確認できます。
コレクターの所有者様が撮影した動画もお預かりしました。
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