水戸金工

水戸金工は水戸藩二代藩主・徳川光圀が殖産策のひとつとして奨励した事が原点とし発展したと考えられる。
常陸国水戸(茨城県)の金工で水戸彫りの基礎を築いたのは、軍地与四郎こと功阿弥で、現在の令和ではあまり語られる事も少ないが、後藤家の門人でもあった。作風は似ておらず、むしろ正阿弥系に近い作風で、延宝(1673年)ごろに活躍している。少し遅れて元禄(1688年)ごろ、明石与太夫が現れ、正阿弥風の作品を遺している。与太夫より一世代おくれ、

延享(1744年)頃に活躍した谷田部通寿は、江戸に出て奈良派の祖、利寿に師事し、水戸彫り中興の祖と呼ばれるまでになった。通寿の得意とした肉彫り地透しの龍は彫刻に高低差が大きく、実に健全でいわゆる水戸彫りの典型となった。

その後は、江戸幕末にかけて、ことに水戸藩九代藩主・斉昭が奨励したことによって隆盛を極め、数多くの名工が輩出した。
通寿の門人で玉川承寿を祖とする玉川派、同じく通寿門と考えられる篠崎保平の一派、保平に学んだと言われる、一柳友善の系統などのほか、奈良派の遺風を伝え赤城軒派を隆盛に導いた泰山元孚(おおやま もとざね)、幕末の最後を飾る荻谷勝平など、多士済々であった。

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