肥前忠吉 (初代)※初代~九代(日本刀全集では肥前国は十一名記載)
元亀3年(1572年)~寛永9年(1632年)8月15日死去。享年66。
初代 忠吉は、日本の刀工で五字忠、新刀最上作、最上大業物
江戸時代初期に肥前を中心に活躍した新刀鍛冶として知られる。
号が忠吉(後に忠広)であり、
本名は橋本新左衛門。新刀最上作最上大業物であり、名手とされる。
1572年(元亀3年)、
高木瀬村長瀬(現佐賀県佐賀市高木瀬町大字長瀬)に
龍造寺家の家臣である橋本道弘の子として生まれた。
橋本家は元々武士で少弐氏の一族とされる。
九州の大名龍造寺氏に仕えていたが、
祖父の盛弘と父の道弘は1584年(天正12年)3月24日に
島原での沖田畷の戦いの際に討死をしている。
この時忠吉はまだ13歳であったがために、
軍役叶わずとして知行断絶した。
このため一家は刀匠に転身し、1596年(慶長元年)に 上京して、
山城国の埋忠明寿(うめただみょうじゅ)の門に入り刀工としての技を磨いた。
1598年(慶長3年)に帰国して佐賀城下町(現長瀬町)に居を構え、
鍋島勝茂から戦功ある家柄であったということで
橋本家は鋳物師の谷口家(初代谷口清左衛門長光)とともに
佐賀藩の「手明鑓」(藩士)として、世禄二十五石であらためて取立てられ、
代々藩工として栄えた。
作刀
制作の時期により、五字忠銘、秀岸銘、住人銘、
改銘後の忠広銘に分かれる。
初期は「五字忠銘」といって「肥前国忠吉」の銘がほとんどのようである。
秀岸というのは僧侶らしく、この人の書く字を真似て切った癖のある切銘のことを言う。
秀岸銘をやめてのち、「肥前国住人忠吉作」などと切る住人銘になる。
晩年は武蔵大掾を受領し名を「忠広」と改め「武蔵大掾藤原忠広」と切る。
重要美術品の刀、脇差しがある。
息子の近江大掾忠広以下、幕末まで一貫して続く肥前刀の開祖といえよう。