説明
徳川に纏わる妖刀「村正」とは室町時代後期に初代~3代が有名で6代に渡って栄えた伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)の名工です
村正の刀が最も称賛されるのはその凄まじい斬れ味で、本拠地が伊勢と地理的にも近い精強な三河武士を中心に、徳川家康(#村正御大小)や豊臣秀次(一胴七度)などの天下人を含めた大名格や、その重臣・子弟などの上級武士に戦場で愛用された優品である[3][5][9]。 実戦刀としては、当時最も高級に評価されたものの一つだった(#代付)。 正宗が天下の名刀(芸術品)なら、村正は天下の業物(実戦刀)と言える(#斬味)。
江戸時代に生じた妖刀伝説のみによって有名になったと誤解されることもあるが、実際は戦国時代の間に、既に当代最高の刀工名跡としての名声を確立していた。とりわけ、大永・天文の代の村正は「藤原朝臣村正」を称したが、この「朝臣」の名乗り方から彼が五位の位階を得ていたこと[17]、つまり貴族(従五位下以上)に叙爵されていたことがわかる。比較として、関派の筆頭和泉守兼定や「日本鍛冶惣匠」伊賀守金道ですら、その受領名は六位相当に過ぎない。五位相当の官職を持つ刀工は他に、四代勝光(右京亮勝光)や初代大道(陸奥守大道)などがいるが、右京亮勝光は将軍足利義尚から[18]、陸奥守大道は織田信長から[19]庇護を受けるなど、いずれも当時の天下を握る武士と繋がりがあった。それに対し、商業都市桑名に住みながらも貴族に列せられた村正が、当時いかに破格・別格の存在だったかが見て取れる。『極論集』(慶長年間(1596-1615年)写)では、「初心より正宗と見る程なるがあり」とあり[12]、妖刀伝説の発生以前から正宗と比較されるほど高名であった。
「妖しい魅力のある刀」という意味での妖刀評は嘘ではなく、その覇気を感じさせる外観が妖刀伝説に説得力を与えたのではないかともされる[6]。村正の作は、美術品としても、南北朝時代後の室町時代(1394–1596年)を代表する作品の一つと評されている[12](#美術的評価)。美術品としての村正を愛した人物として最晩年の伊藤博文などがいる(#春畝村正)。末古刀期(1461-1596年)の刀は一般に没個性的なものが多いが、村正は特殊なケースで、個性的な特徴が幾つもあって異彩を放ち、刀剣の勉強会で行われる入札鑑定でも比較的容易な部類である[3](#作風)。 全体として反りが浅く肉つきが薄く、鋭さを感じさせる形状になっている[20]。 刃文は、のたれ(大きくうねる波の形)[3]や、
また、創作の影響か村正といえば打刀の印象が強いが、実際は短刀(一尺(約30.3cm)以下の刀)や寸延短刀(短刀様式の一尺以上の刀)をより多く打った[22]。その他、村正一派の槍は、戦国時代の名槍の中でも金房派(宝蔵院流槍術のお抱え刀工の流派)を超える随一の絶品である[23]。矢根鍛冶(矢尻鍛冶)として活動していたこともあるらしく、村正銘の矢根(矢尻)の現存品がある[24]。一方、村正の太刀は神社への奉納用しか現存せず、薙刀は専門家の間でも未見である[3]。
村正は、後世の噂では「その人となり乱心」(気が狂った性格)と中傷される[25]。だが、実在の村正は、人が行き交う自由貿易都市「十楽の津」桑名を本拠地に選び、交友関係が広く研究熱心で、他派の刀工との合作刀を何振りも作っている[26]。加えて、「妙法村正」を始め神仏の加護を祈った傑作が多くあり、市内の各神社には千子派による寄進刀も残り[26]、敬虔な人柄を思わせる物証が多い[27]。
初代村正の生誕地は諸説あり、古伝では美濃国関(現在の岐阜県関市)もしくは赤坂(現在の岐阜県大垣市赤坂町)といい、これら美濃伝、特に末関物の刀工が活躍していた地で刀鍛冶を修行したであろうことは、作風からも確かめられる[3][5]。初代をいつとするかも諸説あって、現存最古の年号銘がある刀剣は文亀元年(1501年)だが、現存刀のみから判断する石井昌国『日本刀工銘鑑』はこの文亀元年の村正を初代とし[28]、北勢史との整合性を重視する福永酔剣『日本刀大百科事典』は初代を1400年代前半、文亀元年の村正は第3代とする[5]。代々の村正の中では、この文亀の代の村正(右衛門尉村正、小城藩鍋島氏重代の家宝「妙法村正」を作刀)と、次代の大永(1521-1528年)の村正(藤原朝臣村正)が最も評価が高い[29][22]。
美濃での修行を終えた後、伊勢国桑名に移った村正は、楠木正成嫡流玄孫にして後に伊勢楠木氏第2代当主となる後南朝の重臣楠木正重を弟子に迎えた[30][31][32]。村正の一派と正重の一派は共に伊勢最大の流派である千子派を形成した。正重は村正の門人では最も師に迫る力量を持ち、作によっては師を凌駕することすらあるという名工である[3]。村正と正重、どちらの名跡も少なくとも17世紀後半まで続くが、新刀期(1596–1763年)には師系の村正に代わって正重の流派が千子派首座を占めていた[33]。 正重に次ぐ千子派の高弟が正真で、酒井忠次の猪切[3][34]や本多忠勝の蜻蛉切[3]などを製作している(蜻蛉切は同名の別人説もある[35])。
村正は徳川家や人々に祟る妖刀伝説の風説でも広く知られる。正保年間(1645-1648年)以降頃の『三河後風土記』等を契機に伝説が発生し、1700年代後半までには江戸で一般に普及。幕末には西郷隆盛らに愛用される(#匕首腰間鳴)など倒幕運動の象徴ともされるようになり、同時に歌舞伎や浮世絵での名作を生み出すことになった(#妖刀村正伝説)。※引用フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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